【観音山】朝鮮人陶工の癒しの場
有田焼のルーツは、秀吉の朝鮮出兵に遡る
16世紀末、秀吉の朝鮮出兵の影響を受け、多くの朝鮮人陶工が、主に九州の大名によって、日本に連行されました。そのうち有田町の陶祖と呼ばれる金ヶ江三兵衛(画像 上)は、現在の多久市近辺で、深海宗伝は、現在の武雄市付近で、生産活動を始めました。
その後、三兵衛は”白い焼物”の陶石を求めて、有田にたどり着きます。深海宗伝亡き後、妻の百婆仙(画像 下)も同じく白磁を求めて、有田にたどり着きます。そうして、1620年代から30年代にかけ、有田は朝鮮人陶工を中心とする、磁器の一大生産地となりました。
故国の景色を観音山に求め
以下、歌でご紹介する「観音山」は、百婆仙一行が有田に移住し、そこで築きあげた稗古場窯を少し登ったところにあります。遠く故郷を離れ、しかしながら故郷李氏朝鮮では、陶工の身分保障が極めて低く、彼らは、この地、有田で身を立てる覚悟を余儀なくされたものと察します。
歌にしました...「月光の下、有田 観音山にて」
陶工たちは、しばしの憩いのひとときを、観音山に登り、そこから故郷に似た眺望の山河を見て、酒を酌み交わしたそうです。月の光に照らされつつ、故郷を思い「哀号、哀号」と彼らは泣き叫んでいた、そんな話を、昔の有田の人から聞きました。
また初期伊万里の染付によく月が描かれていること、また三兵衛の戒名に月が用いられていることなど、望郷の念を月に託しているようにも偲ばれます。どこで見る月も同じ月なんだと、自らを慰めたのではないでしょうか。
(T.S.)